「絶対に許さん!ダメだ」 温厚な父がいつになく語気を荒げた。 「誰の子供かも言えないような…そんなことで許してもらえると、そう思っているのか?」 母は病院から帰った時の服のまま、蒼白で崩れ落ちずにやっと座っている状態だった。 そして木綿子は…突然のことに何も考えられず、ただ機械的にみんなにお茶を入れていた。 麻実はただ黙って俯いていた。 辺りを重い沈黙が包む。 父は搾り出すような声で言った。 「お前、自分の体のことを分かっているのか?今までも随分無理をしてきたんだ。この上そんなことをしたら…」 ふいに麻実が顔をあげた。 「命にかかわるって、そう言いたいんでしょう?」 今朝、突然帰省してきた麻実から聞かされた事実。 母はその足で彼女を医者に連れて行き診断を待った。 妊娠19週目。 普通ではもう中絶することすら難しい月数になっていた。 病院から帰ってきてからずっと思っていたが、麻実の顔色は悪く、正月に会ったときに比べて随分痩せたようだった。 「分かっているんなら―」 「でも私は産みたいの。誰に何と言われても、絶対に産むから」 そう言い放った麻実に向かい、それまで黙って父子のやりとりを聞いていた母が突然口を開いた。 「何で、何で今まで黙っていたのっ?」 聞いたことがないくらい厳しく強い母の口調だった。 「だって…」 「何でこんなになるまで一人で抱え込んでしまったの?そんなに母さんたちが信じられなかったの?」 母は痩せてやつれた娘の体を抱きしめると、悲痛な嗚咽を漏らした。 「こんなになるまで…何で」 病院で聞いた話では、麻実は妊娠を疑った時期から一切の薬を飲むことを止めていたという。もちろんそれには常時服用しなければならない心臓の薬も含まれていた。 これまで幸いなことに大きな発作を起こすことなくきたが、一つ間違えば子供はもとより自分の命の保障さえなかったというのだ。 検査の結果、彼女の心臓は妊娠による負担でかなり状態が悪くなっていた。 すでに中絶するにも胎児が大きくなりすぎて出産と同じくらい体に負担がかかるという。 辛うじて選択肢はあるものの、今の状況ではどちらも同レベルのリスクがあるということだった。 ただし出産に耐えられる大きさに胎児が育つまで、麻実の心臓が持ちこたえればの話だ。 恐らく、麻実はこの時期まで、家族に知らせるのを待っていたのだと思った。 もっと早い時期に両親に相談すればそれだけ産む事を止められる可能性が大きい。それが分かっていたからぎりぎりになるまで、一人で持ちこたえるには気力も体力も限界になるまで我慢して待ち続けていたのだと。 「お母さん、ごめんなさい。でも絶対に産みたい。この子が産まれるまでどんなことをしても頑張ってみせる。だから産ませて。お願い」 その強い意志を秘めた断固たる様子に母も木綿子も、そして父親さえもう何も言えなかった。 無事に子供が生まれる保証はない。 ただ、万に一つでも可能性があるならば、それにすべてを賭けようとする麻実をもう誰も止めることはできないのだと悟った。 何とか無事に産ませなければ。 それだけでみんなの思いが一つになった。 その時から家族みんなの闘いが始まった。 子供の頃からかかりつけだった医師に事情を説明し、産科医と相談してできるだけ子供に影響が出ない薬が処方された。 家ではできるだけ栄養を摂らせ、安静にして体力を温存し体調管理を徹底する。 麻実はただ子供のためだけに食べ、そして眠った。 家族の生活の中心は麻実たち親子になり、みんなが薄氷を踏む思いでその様子を見守り続けた。 ただ、母は娘の体調が落ち着いてくると、家に籠もりがちな彼女を時々散歩に連れ出し近所を歩いていた。 それからしばらくすると、麻実の体は傍目で見ても分かるくらいお腹が出てきた。特に細身で小柄な彼女はゆったりとした服を着ても妊娠していることは隠しようがなかった。 近所の噂好きな人たちがそれを見て、いろいろと言っているのは知っていた。 一緒に買い物に行った時など、あからさまにじろじろと見られ陰口をたたかれているのを感じることもあった。 だが母はそれを隠そうとせず、むしろ堂々と娘の手を取って連れて歩いたのだ。 「もう少しで孫が生まれるの、今から楽しみで」と頬を緩ませ自慢する母を見て、知り合いたちは誰も悪口を言うことはなかった。それどころかみんなで代わる代わる麻実のお腹を撫でて「あと何ヶ月」だとか「男か女か」と話に花が咲いたくらいだった。 木綿子は、母の本当の強さと逞しさを目の当たりにした。 それは同じ女性として、母に対して尊敬の念を抱かせるに十分な出来事だった。 一方、お腹の子の父親のことに関しては、いくら問いただしても、麻実は絶対に答えなかった。 直接聞きだすことを諦めた両親が幾度となく仲のよかった大学の友人たちに聞いて回ったが、誰もその存在を知る人はいなかった。 その時分かったことなのだが、麻実はアパートを引き払う時一緒に大学にも退学届を出していた。 休学ではなく、退学。 もう後戻りすることは考えない。それは決意の表れだったのかもしれない。 しかしその時から木綿子には言いようのない、理解しがたい不安がついてまわった。 双子に生まれ備わった勘というもののせいか、今までも木綿子と麻実は互いに片割れの幸、不幸を自分のことのように感じとってしまうことはあったのだが。 杞憂であってほしい。 しかし木綿子は姉が自分の行く末を悟っているようで、恐ろしくてたまらなかった。 それからしばらくは麻実の体調が良く、子供も順調に育っていたのだが、7ヶ月を迎える頃から少しずつベッドから起きられない日が増えていった。 体が浮腫み、貧血で枕から頭が上らないことも度々あった。 それでもみんな無事な出産を信じて疑わなかった。 子供をどんな風に育てるかで、遠い将来の夢を競わせたりもした。 先が見えない不安を打ち消すように、誰もが幸せな未来を口にしていたのだ。 あの運命の日を迎えるまでは。 HOME |